تسجيل الدخول午後4時17分。拓哉から連絡が届きました。〈20時〉続いて、地図の共有画面が送られてきます。駅から少し離れた古い雑居ビル。3階にある時間貸しのレンタルスペースでした。〈ここで待ってる〉麻里亜は地図を開きました。飲食店ではありません。人の多い場所でもない。貸会議室という名前になっていますが、掲載されている室内写真には、小さなテーブルと椅子が二脚しかありませんでした。白い壁。細長い窓。鍵を使って入る個室。麻里亜は画面を閉じ、もう一度開きました。〈どうしてここなの?〉拓哉からは、しばらく返事がありませんでした。5分後。〈外だと落ち着いて話せないから〉〈誰にも言わずに来て〉麻里亜は胸の奥に広がる違和感を、言葉にできませんでした。拓哉は人目を避けたいだけなのかもしれない。妻に知られたくないのだから当然です。昨日のように感情的にならず、二人だけで話したいのでしょう。そう考えれば、不自然ではありません。けれど、その説明を信じようとするほど、指先が冷えていきました。麻里亜は共有された地図の画面を撮り、瑠璃子へ送りました。〈20時にここです〉瑠璃子からは、すぐに返事が届きました。〈ありがとうございます〉〈聖さんには?〉麻里亜は少し迷いました。〈場所だけ送ります〉〈分かりました。夫には、聖さんへ伝えたことを知られないでください〉麻里亜は聖との画面を開きました。地図を送ります。〈20時。会って話したら帰る〉今度は、すぐに既読がつきました。〈行くな〉〈もう決めた〉〈俺も行く〉〈来ないで〉〈無理〉麻里亜は画面を閉じました。同じ頃、瑠璃子から愛梨沙へ住所が送られていました。〈20時です。夫より先に着いてください〉愛梨沙は地図を確認しました。自宅から車で30分ほどです。建物の正面には狭い道路。隣にコインパーキング。裏手には細い通路があります。正面から見張れば、入口へ向かう人間は確認できそうでした。〈分かりました〉〈聖さんも来る可能性があります〉愛梨沙は画面を見つめました。〈麻里亜さんが呼んだのですか?〉〈場所を伝えたようです〉〈夫は知っていますか?〉〈知りません〉愛梨沙は小さく笑いました。拓哉は麻里亜と二人きりになるつもりです。麻里亜は聖へ場所を教えています。瑠璃子は愛梨
店を出てからも、瑠璃子の言葉が耳の奥に残っていました。「明日、夫が誰にも見せないつもりの姿を、私の代わりに見てきてください」夫。その呼び方だけが、胸の奥へ細く刺さります。拓哉は瑠璃子の夫です。法律にも、名字にも、家の鍵にも守られた人。愛梨沙がどれほど拓哉を見つめても、その事実だけは変わりません。それでも瑠璃子は、自分ではなく愛梨沙に頼みました。拓哉が麻里亜と会う姿を、自分の代わりに見てほしいと。愛梨沙は自宅へ戻ると、明かりもつけずにベッドへ腰を下ろしました。鞄の中からスマホを出します。連絡先には、先ほど登録したばかりの瑠璃子の名前がありました。まだ一度も文章を交わしていません。それなのに、その名前はずっと前から画面にあったように見えました。(妻なのに自分では見に行かないんだね怖いの?それとも私の目なら汚れてもいいと思ってる?いいよ拓哉さんが誰を見てどんな嘘をついてどんな指で女に触れるのか全部、私の中へ入れてあげる)スマホが震えました。瑠璃子から初めての連絡です。〈先ほどお願いしたことですが、夫には絶対に知られないでください〉愛梨沙は画面へ指を滑らせました。〈はい〉〈麻里亜さんにも話しかけないでください〉〈分かっています〉〈何か起きても、すぐには間へ入らないで〉愛梨沙の指が止まりました。何か起きても。店では口にしなかった言葉です。他の文章よりも、その一文だけが黒く見えました。〈何か起きると思っているのですか?〉既読はつきました。けれど、返事は届きません。数分後、瑠璃子から送られてきたのは、問いへの答えではありませんでした。〈場所が分かり次第、連絡します〉愛梨沙はスマホを伏せました。瑠璃子は、何かを考えています。麻里亜から聞いたことだけではない。拓哉が明日、どんな顔で麻里亜へ会うのか。その先に何が起きる可能性があるのか。少なくとも、愛梨沙より深く先を見ています。胸の奥が、ゆっくり熱を帯びました。瑠璃子は妻です。それなのに、拓哉を愛梨沙の視線へ差し出そうとしています。(あなたの夫を私に見せてくれるんだね知らない拓哉さんを妻しか見てはいけないところまで私に覗かせてくれる優しい人それとも私を使うつもり?どちらでもいいよ拓哉さんに近づけるならあなたの指先にな
愛梨沙は手袋の内側へ爪を食い込ませました。(知ってたんだ私が拓哉さんを見てること同じ道を歩いた足も同じ店で吸った息も拓哉さんが振り返る前に柱の陰へ隠れた身体も全部妻の目の中に入ってた見つかってたんだ恥ずかしいうれしい拓哉さんの奥さんに私の愛を見られてたこの人は私が拓哉さんを欲しがる姿を何度も写真で見たんだもっと見て白い布を剥がして指の先から胸の奥まで開いてあなたより深いところに拓哉さんがいるって妻の指で確かめて)「知っていたのに、どうして今まで何も言わなかったんですか?」「少なくとも、報告の中であなたが夫へ話しかける場面はありませんでした」瑠璃子の視線が、愛梨沙の白い手袋へ下りました。「夫を見ているだけなのか、近づく機会を待っているのか、それとも傷つけるつもりなのか、判断できなかったんです」「傷つけると思ったなら、警察へ話せばよかったでしょう?」「夫の近くに同じ女性が何度かいたというだけでは、何も起きていませんから」「拓哉さんには?」「話していません」愛梨沙の唇が、わずかに開きました。「どうしてですか?」「夫があなたを知らないのなら、わざわざ教える必要はありません。知っているのに隠しているのなら、尋ねても正直には答えないでしょう」瑠璃子は結婚指輪へ親指を添えました。「どちらにしても、私から名前を教える理由はありませんでした」「今夜までは?」「ええ。今夜までは」愛梨沙は瑠璃子の目を見ました。怒りも怯えもありません。けれど、何も感じていない目ではありませんでした。愛梨沙がどこまで知っているのか。どこまで夫を追っているのか。その奥に何が潜んでいるのか。瑠璃子もまた、愛梨沙を測っています。「私がここにいることも、最初から分かっていたんですか?」「店に入った時は気づきませんでした。窓へ同じ姿が何度か映ったので、顔を確認しました」「写真の私を覚えていたんですね」「何度も見ましたから」その言葉が、愛梨沙の胸の内側を撫でました。(何度も私を見たんだ拓哉さんを見ている私を妻が見ていた拓哉さんの背中を挟んで私たちずっと向かい合ってたんだねあなたは夫の先から私は夫の後ろから同じ人を見てた近いね思ってたよりずっと近い)「私が麻里亜さんを追ってきたとも思っているんで
「聖さんには、明日会うことだけでも伝えてください」「この画面を送ったら、絶対に来ます」「画面を送る必要はありません。場所が分かったら知らせると、それだけ伝えればいいでしょう」「それでも怒ります」「怒られることと、知られないまま会うことのどちらが怖いですか?」麻里亜は画面を見つめました。やがて連絡先を開き、短い文章を打ち込みます。「明日会うことになった。場所が分かったら送るって書きました」「もう送ったんですか?」「今、送りました」麻里亜はスマホを伏せました。「全部、奥さんに言わされた気がする」「送らないこともできました」「そういうところが、ずるいんです」「そうかもしれませんね」麻里亜はアイスコーヒーを飲み干しました。「奥さんには、この画面も送った方がいいですか?」「送ってもらえるなら、保存します」「拓哉さんには見せないでください」「見せません」「聖の名前も、奥さんからは出さないで」「私から夫に、聖さんの名前は出しません」麻里亜は少し迷ったあと、瑠璃子へ画像を送りました。瑠璃子のスマホが一度だけ震えました。画面を確認すると、すぐに伏せます。「明日、場所が分かったら連絡してください」「奥さんも来るつもりですか?」「行きません。私が近くにいれば、夫は気づくかもしれません」「じゃあ、何をするんですか?」「あなたからの連絡を待ちます」麻里亜は椅子から立ち上がりました。「もう帰ります」「今日は来てくれて、ありがとうございました」「お礼を言われるようなことじゃありません」「それでも、来てもらえなければ話せませんでした」麻里亜は鞄を肩へかけました。「奥さんのこと、まだ信じてませんから」「分かっています」「拓哉さんに奥さんと別れてほしいって気持ちも、変わってません」「それも分かっています」「明日会ったら、拓哉さんが私を選ぶかもしれない」瑠璃子は麻里亜を見ました。「その時は、言葉ではなく、夫が何をするのか見てください」麻里亜は返事をせず、店の出口へ向かいました。ガラス扉が開き、その姿が夜の暗がりへ消えました。愛梨沙はメニューを閉じませんでした。瑠璃子が席を立つまで、動くつもりはありません。けれど瑠璃子は帰りませんでした。紅茶のカップへ目を向けたまま、静かに座っています。1分が過ぎました。
愛梨沙は背中合わせのボックス席で、メニューへ顔を寄せていました。大きな窓には、瑠璃子の横顔が淡く映っています。紅茶へ目を戻す直前、瑠璃子の視線が一度だけ窓へ向かいました。愛梨沙は、その動きに気づきません。(上手だね拓哉さんの奥さん怒鳴りもしないのに麻里亜さんの言葉へ指を入れて隠してるところを探っていくその指で拓哉さんにも触れたの?眠る前の唇もシャツの下の汗も私が知らない拓哉さんを何度も撫でた?私にも触れてみて拓哉さんが入ってる場所を探して喉の奥まで開いても出てくるのは拓哉さんの名前だけあなたの夫で満たされた私を妻の指で確かめて)「返信しないと、また連絡が来るかもしれない」麻里亜が呟きました。「返したいなら、返してください」「会うって書いてもいいと思います?」「それは、あなたが決めることです」「奥さんは止めないんですね」「止めても、あなたは行くでしょう」麻里亜は否定しませんでした。「黙って行かれるより、誰かが行き先を知っている方がいいと思っています」「場所を送るだけで、本当にいいんですか?」「今のあなたにできることから始めてください」「私が何をするかまで分かるんですか?」「分かりません。ただ、一度にいくつも勧めても、今のあなたは聞かないでしょう」麻里亜は瑠璃子を見ました。「奥さんは、私が無事に帰るのを待つんですか?」「あなたに何かあれば、夫は自分に都合のいい説明をするでしょう」「心配してるとは言わないんですね」「私が優しく言えば、信じますか?」麻里亜は少し考えました。「たぶん、信じません」「なら、取り繕う必要はありません」麻里亜はスマホへ目を戻しました。文章を打っては消し、また指を動かします。「何て返せばいいと思います?」「私が考えれば、夫に気づかれるかもしれません」「奥さんの言い方って、そんなに分かるものなんですか?」「長く一緒にいますから」「だったら、拓哉さんも奥さんの言い方が分かるってことですよね」「そうかもしれません」「何を書いても、奥さんが横にいるって気づかれそうで怖い」「短く返せば、誰が考えた文章かまでは分からないでしょう」「会うって、それだけ?」「余計なことを書かなければ、夫の方から必要なことを送ってくると思います」麻里亜は画面へ指を滑らせまし
「どうして、消しちゃいけないんですか?」麻里亜はスマホを伏せず、瑠璃子を見ました。「夫が、あなたを誰にも知らせず呼び出そうとした記録だからです」「記録って……拓哉さんが何かするって決めつけてるんですか?」「決めつけてはいません。何も起きなかったとしても、消す理由はないでしょう」麻里亜の視線が画面へ下がりました。「誰にも言うなって、どういう意味だと思います?」「あなたは、どう受け取ったんですか?」「また聞き返すんですね。奥さんなら、拓哉さんが何を考えてるか分かるでしょう」「分からないから、あなたと話しています。夫は相手によって、言葉の意味まで変えますから」麻里亜はスマホから目を上げました。「写真を消せって言うつもりなのかな」「その可能性はあると思います」「本当に謝りたいだけかもしれないですよね。さっきは悪かったって書いてあるし」「謝るだけなら、誰にも知らせずに来てほしいとは書かないでしょう」麻里亜の指が止まりました。「会わない方がいいって言いたいんですか?」「一人で会うことには反対です」「誰かを連れていったら、拓哉さんは帰ります」「それなら、帰ってもらえばいいのではありませんか?」麻里亜の眉が寄りました。「奥さんには簡単に言えるんでしょうね。私は今日、もう終わりだって言われたんです。明日もう一度話せるなら、会いたいと思います。それがそんなにおかしいですか?」「おかしいとは言っていません」「だったら、止めないでください」「止めているのではありません」瑠璃子は麻里亜の右手へ目を向けました。「あなたの手首を押さえた人が、次は誰にも知らせずに来てほしいと言っています。その二つを別々に考えないでください」麻里亜は右手を袖の奥へ隠しました。「拓哉さんは、私を傷つけようとしたわけじゃありません」「傷つけるつもりがなかったとしても、痛いと言われた時に離さなかったんですよね?」「写真を奥さんに見せられたら全部壊れると思って、怖くなっただけかもしれない」「夫が守ろうとしたのは、あなたですか? それとも自分ですか?」麻里亜は唇を結びました。瑠璃子は返事を急かしませんでした。紅茶をひと口飲み、カップを受け皿へ戻します。「奥さんは、拓哉さんを悪い人にしたいんですか?」「私が何を言っても、夫がしたことは変わりません」「そ







